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Channel: 元寇の真実
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蒙古襲来絵詞

教科書や歴史書などによく載せられているので、ご覧になったことがある方も多いと思いますが、上に張ったのは元寇にかんする貴重な資料、『蒙古襲来絵詞』の一場面です。右側に描かれているのが絵巻を描かせた肥後の御家人・竹崎季長です。一見すると、馬を射られた竹崎季長に、恐ろしげな形相の蒙古兵が今にも襲い掛かろうとしているようで、いかにも日本軍が苦戦しているように見えます。ところが、驚くことにこの3人の蒙古兵は、...

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文永の役の勝因は「神風」か?

戦後、文永の役は歴史家たちによって「戦闘は武士たちが一方的に劣勢だったが、元軍が夜襲を警戒して船に戻ったところを暴風雨が襲い、日本は九死に一生を得ることができた」とされてきました。そして、この暴風雨が弘安の役で元軍を襲ったとされる台風と併せて、日本人に「神風」に対する信仰をもたらしたとされています。しかし、文永の役の勝因が本当に「神風」だったのかについては怪しげな点が多く、以前から異論を唱える人がい...

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元軍の狙いは何だったのか?

1274年の文永の役における元軍の動員数は以下のとおりです。蒙古軍 約2万人 高麗軍 約5500人 非戦闘員 約1万5000人 船 900隻 計 約4万人...

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元寇における高麗について

1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以っ...

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史料の信頼性について

元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。イギリス史...

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過去の日本人の元寇に対する認識

戦後、私たちは元寇について「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」のだと教えられてきました。そして、この奇跡的な元寇の幸運を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」日本人は、自国に対する神国観念を彫磨させ、そのことが明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと導いたのだと教えられてきたのです。江戸時代の歴史家・頼山陽が書いた『日本外史』という...

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鎌倉武士は一騎討ち戦法で戦ったのか?

『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴...

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元寇史料

日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』(『鎌倉年代記裏書』)『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』(『元史日本伝』)『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人...

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1259年2月9日

戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。これは本当でしょうか?実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。〔新御式目〕   條々 一、可被祟敬佛神事、...

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史料から読み解く文永の役

長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。 現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞...

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蒙古襲来絵詞

教科書や歴史書などによく載せられているので、ご覧になったことがある方も多いと思いますが、上に張ったのは元寇にかんする貴重な資料、『蒙古襲来絵詞』の一場面です。右側に描かれているのが絵巻を描かせた肥後の御家人・竹崎季長です。一見すると、馬を射られた竹崎季長に、恐ろしげな形相の蒙古兵が今にも襲い掛かろうとしているようで、いかにも日本軍が苦戦しているように見えます。ところが、驚くことにこの3人の蒙古兵は、...

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文永の役の勝因は「神風」か?

戦後、文永の役は歴史家たちによって「戦闘は武士たちが一方的に劣勢だったが、元軍が夜襲を警戒して船に戻ったところを暴風雨が襲い、日本は九死に一生を得ることができた」とされてきました。そして、この暴風雨が弘安の役で元軍を襲ったとされる台風と併せて、日本人に「神風」に対する信仰をもたらしたとされています。しかし、文永の役の勝因が本当に「神風」だったのかについては怪しげな点が多く、以前から異論を唱える人がい...

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元軍の狙いは何だったのか?

1274年の文永の役における元軍の動員数は以下のとおりです。蒙古軍 約2万人 高麗軍 約5500人 非戦闘員 約1万5000人 船 900隻 計 約4万人...

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元寇における高麗について

1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以っ...

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史料の信頼性について

元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。イギリス史...

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過去の日本人の元寇に対する認識

戦後、私たちは元寇について「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」のだと教えられてきました。そして、この奇跡的な元寇の幸運を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」日本人は、自国に対する神国観念を彫磨させ、そのことが明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと導いたのだと教えられてきたのです。江戸時代の歴史家・頼山陽が書いた『日本外史』という...

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鎌倉武士は一騎討ち戦法で戦ったのか?

『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴...

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元寇史料

日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』(『鎌倉年代記裏書』)『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』(『元史日本伝』)『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人...

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1259年2月9日

戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。これは本当でしょうか?実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。〔新御式目〕   條々 一、可被祟敬佛神事、...

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史料から読み解く文永の役

長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。 現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞...

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