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Channel: 元寇の真実
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元軍の狙いは何だったのか?

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1274年の文永の役における元軍の動員数は以下のとおりです。
蒙古軍 約2万人
高麗軍 約5500人
非戦闘員 約1万5000人
船 900隻

計 約4万人
元軍がどんなに強くてもこれだけの兵力で日本全土を征服することはできません。
元軍の狙いは一体何だったのでしょうか?
何故、文永の役と弘安の役の2回とも博多湾に襲来したのでしょうか?

元軍が博多湾に襲来したのは、そこに大宰府があるからです。
元軍の兵力は大宰府を攻略するために見積もられたものだったのです。
大宰府は九州の総括府で、海辺防備や東アジアとの交渉はその専任とされてきました。
663年の白村江の戦いの後に唐の侵攻に備えて築かれた、全長1.2キロ、高さ13メートル、基底部の幅80メートルの土塁、水城によって守られています。

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_4018366_0?20060505154156.gif

元寇当時、元と高麗が持っていた日本に対する知識はごく限られたものでした。
日本という国がどんな形をしているのかもわかりません。
元のフビライが日本に送った使節も大宰府が対応し、京都や鎌倉を訪れることはありませんでした。
つまり、元と高麗が確実に所在を把握していた日本側の重要な政治機関は、大宰府ぐらいだったのです。

何故か時々「文永の役の原因は鎌倉幕府が元の使節を処刑したこと」だと勘違いしている人がいるのですが、それは間違いで文永の役以前に来日した使節は、全員無事に帰国しています。
その結果、帰国した使節が大宰府周辺の地理や防衛体制を詳細に報告。
1274年に元の大軍が日本に襲来し、大勢の女性や子供・老人といった何の罪もない日本人が、殺害されたり拉致されたりしました。
『八幡愚童訓』には大宰府周辺で偵察活動をおこなう元の使節の様子が、『其牒使、夜々見めくりて、筑紫の地理、船津、運庭、足懸、逃路等に至るまてを、ことことく図し、又、あひあふ人の、やうす想し、所のあないを、しるしなとして、諸事はかりすまして、返りけり』と記されています。

10月20日、博多湾岸に上陸した元軍は、迎え撃った武士たちの奮闘によって大打撃を受け、大宰府や水城に到らぬまま日本から撤退することを余儀なくされました。
本来は前哨戦に過ぎない博多で元軍が敗退してしまったことが、文永の役の全体像を見え難くしているのか、「元軍の目的は威力偵察だった」とか「日本に対する威嚇が狙いだった」とか言う人がいます。
目と鼻の先の博多湾から上陸しながら、大宰府に手付かずのまま帰ってしまったのでは、威力偵察の目的をまったく果たしていませんし、威嚇どころか鎌倉幕府にナメられるだけです。
実際、作戦の中心にいた金沢実時が死亡したために実行されませんでしたが、文永の役の後の鎌倉幕府では、「日本の方から元に侵攻しよう」との攻勢論が支配的だったのです。

1275年、フビライは再び日本に使節を派遣しますが、これに対して鎌倉幕府は適切に処置しました。
使節を鎌倉に護送し、龍ノ口で処刑したのです。
1279年に来日した使節も処刑しました。
そのため、元軍は日本についての新たな情報をほとんど得ることができず、1281年の弘安の役でも大宰府を目指し、鎌倉幕府が迎撃態勢を準備万端に整えた博多湾に攻め込むしかなかったのです。

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