日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。
『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
(『鎌倉年代記裏書』)
(『鎌倉年代記裏書』)
『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)
(『元史日本伝』)
『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
(『高麗史表』)
(『高麗史表』)
弘安の役における元軍の壊滅。
『八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
(『元史日本伝』)
(『元史日本伝』)
『閏七月朔、賊船ことことく、漂蕩して海に沈みぬ、・・・鷹島に打上られたる異賊、数千人、船なくて疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んとするを、鎮西の軍兵とも、少弐三郎左衛門景資を大将として、数百艘おしよせたりしかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、なしにけるとそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将のふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆うちとる、但し、ことことくに、殺し尽しても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝が王に事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
(『八幡ノ蒙古記』)
(『八幡ノ蒙古記』)