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Channel: 元寇の真実
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文永の役の勝因は「神風」か?

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戦後、文永の役は歴史家たちによって「戦闘は武士たちが一方的に劣勢だったが、元軍が夜襲を警戒して船に戻ったところを暴風雨が襲い、日本は九死に一生を得ることができた」とされてきました。
そして、この暴風雨が弘安の役で元軍を襲ったとされる台風と併せて、日本人に「神風」に対する信仰をもたらしたとされています。
しかし、文永の役の勝因が本当に「神風」だったのかについては怪しげな点が多く、以前から異論を唱える人がいました。

まず、お天気博士といわれた故荒川秀俊氏が『文永の役の終わりを告げたのは台風ではない』という論文を発表し、戦後の歴史家たちに異論を唱えました。
元軍が博多に上陸した旧暦の10月20日は、現在の新暦では11月26日になり、「神風」の正体が台風であるとは考えられません。
さらに、元寇の経過については多くを『八幡愚童訓』の記述に基づいているのですが、そこにも文永の役で元軍が暴風雨に遭遇したとは記されていません。
こうした異論に対して歴史家たちが持ち出してきたのが、京都の公家・勘解由小路兼仲の日記『勘仲記』です。
現場の人たちは誰も目撃していないが、京都の公家が日記に「元軍は逆風によって本国に吹き返されたらしい」と記述しているので、文永の役の勝因は「神風」に間違いないというのです。

一方、軍事専門家からは、「上陸作戦において、橋頭堡を確保せずに船へと引き上げ、翌日また上陸し直すなどということはありえない」との指摘がありました。
上陸作戦で最も損害が集中するのは、浜辺での攻防です。
一度上陸した部隊は何としても陸上の橋頭堡を死守するはずで、「夜襲を警戒して」程度の理由で船に戻ったりはしないのです。
では、何故元軍が船に引き上げたのかというと、その理由については日本に攻め込んだ側の記録である『高麗史金方慶伝』に詳しく書かれているのです。

『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。〔劉〕復亨、流矢に中(あた)る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。会々(たまたま)、夜、大いに風雨す。』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)

「忽敦」とは元軍総司令官ヒンドゥのこと。
彼の戦況認識では、元軍が「小敵」で、日本軍が「大敵」なのです。
「劣勢の元軍がこれ以上戦い続けたら、日本軍の虜になってしまうので、退却するしかない」というのが、ヒンドゥの決定でした。
風雨に遭遇したとの記述もありますが、それは「遂に兵を引いて還る」の後の出来事として書かれています。
『八幡愚童訓』に風雨の記述がないのも、それが博多湾の外の出来事だったことを暗示しています。
つまり、高麗側の記録では、元軍は日本軍に敗れて博多湾を脱出し、「神風」は沖合いに出たところで追い討ちをかけたのに過ぎないのです。

『高麗史』の中に、こうした記述があることを、歴史家たちは皆知っていました。
それなのに無視してきたのです。
どうやら戦後の歴史家たちは、何が何でも「弱い武士が偶然吹いた神風によって救われた」ことにしないと気が済まないみたいです。

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