元軍の狙いは何だったのか?
1274年の文永の役における元軍の動員数は以下のとおりです。蒙古軍 約2万人 高麗軍 約5500人 非戦闘員 約1万5000人 船 900隻 計 約4万人 元軍がどんなに強くてもこれだけの兵力で日本全土を征服することはできません。 元軍の狙いは一体何だったのでしょうか? 何故、文永の役と弘安の役の2回とも博多湾に襲来したのでしょうか?元軍が博多湾に襲来したのは、そこに大宰府があるからです。...
View Article元寇における高麗について
1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以っ...
View Article史料の信頼性について
元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。 この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。 へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。...
View Article鎌倉武士は一騎討ち戦法で戦ったのか?
『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。 それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。...
View Article元寇史料
日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』 (『鎌倉年代記裏書』)『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』...
View Article1259年2月9日
戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。 そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。 これは本当でしょうか? 実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。〔新御式目〕 條々 一、可被祟敬佛神事、...
View Article史料から読み解く文永の役
長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。 現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞...
View Article史料から読み解く文永の役 2
文永の役に関して、著者が明確で同時代性が高く情報量も多い史料が存在することを知りましたので、報告したいと思います。『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門...
View Article史料から読み解く文永の役 3
朝鮮・高麗時代の政治家・儒学者・詩人である李斉賢(1287年~1367年)の著書『益斎乱藁』に、文永の役における高麗軍についての記事があります。 『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家 元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還 実は、『元史』にも『益斎乱藁』と類似する記事があります。東征右副都元帥として文永の役に参加した洪茶丘の伝です。 『元史』 卷一五四 列傳第四十一...
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