『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。
『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴史書などで引用されているのは岩波書店の日本思想大系20『寺社縁起』に収められているもので、これは鎌倉末期の写本と考えられている『菊大路本』を底本としています。
それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。
『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴史書などで引用されているのは岩波書店の日本思想大系20『寺社縁起』に収められているもので、これは鎌倉末期の写本と考えられている『菊大路本』を底本としています。
『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』
(『八幡愚童訓』)
(『八幡愚童訓』)
この『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処』という文章を唯一の根拠として、鎌倉武士が一騎討ち戦法で元軍と戦ったことになっているのです。
『八幡愚童訓』の異本の一つに、江戸後期の国学者・歌人の橘守部に所蔵されていた『八幡ノ蒙古記』があります。
橘守部によれば、これは元寇の一部始終を目のあたりにした箱崎八幡宮の社官留守図書允定秀によって正応2年(1289年)に書かれたもので、『八幡愚童訓』の原本とのことです。
三弥井書店から出版されている小野尚志・著『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』の中に翻刻されたものが収められています。
例の『八幡愚童訓』で一騎討ち戦法の根拠とされている文章は、『八幡ノ蒙古記』では『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』となっています。
「日本ノ戦ノ如ク」ではなく「日本の軍の如く」、「高名不覚ハ一人宛ノ勝負」ではなく「高名せすんは、一命かきり勝負」なのです。
これは一騎討ち戦法を意味する文章ではありません。
何故なら『蒙古襲来絵詞』の中で、日本の軍は相互に名乗り合っているからです。
橘守部によれば、これは元寇の一部始終を目のあたりにした箱崎八幡宮の社官留守図書允定秀によって正応2年(1289年)に書かれたもので、『八幡愚童訓』の原本とのことです。
三弥井書店から出版されている小野尚志・著『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』の中に翻刻されたものが収められています。
例の『八幡愚童訓』で一騎討ち戦法の根拠とされている文章は、『八幡ノ蒙古記』では『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』となっています。
「日本ノ戦ノ如ク」ではなく「日本の軍の如く」、「高名不覚ハ一人宛ノ勝負」ではなく「高名せすんは、一命かきり勝負」なのです。
これは一騎討ち戦法を意味する文章ではありません。
何故なら『蒙古襲来絵詞』の中で、日本の軍は相互に名乗り合っているからです。
『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて、左右に持たせてま□□□と由々しく見へしに、「誰にて渡らせ給候ぞ。涼しくこそ見え候へ」と申に、「肥後国菊池次郎武房と申す者に候。斯く仰せられ候は誰ぞ」と問ふ。「同じき内、竹崎五郎兵衛季長駆け候。御覧候へ」と申て馳せ向かふ。』
(『蒙古襲来絵詞』)
(『蒙古襲来絵詞』)
このように戦場で味方同士の武士たちが名乗り合うのは、自分の名前を覚えてもらうことによって、後の恩賞請求の際に証人となってもらうためです。
鎌倉武士たちは、「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」のではなく、「日本軍同士で名乗りあって証人となり、高名のために一命を賭して戦った」のです。
恐らく、『八幡ノ蒙古記』を資料として『八幡愚童訓』が作成された際に、文章の意味が変わってしまったものと思われます。
鎌倉武士たちは、「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」のではなく、「日本軍同士で名乗りあって証人となり、高名のために一命を賭して戦った」のです。
恐らく、『八幡ノ蒙古記』を資料として『八幡愚童訓』が作成された際に、文章の意味が変わってしまったものと思われます。
実際には、文永の役で鎌倉武士たちは、一騎討ち戦法ではなく、集団戦法を用いて元軍と戦っていました。
『八幡ノ蒙古記』には、姪の浜に上陸した元軍が、赤坂で菊池次郎武房の集団戦法によって撃破されるようすが記されています。
『八幡ノ蒙古記』には、姪の浜に上陸した元軍が、赤坂で菊池次郎武房の集団戦法によって撃破されるようすが記されています。
『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ』
(『八幡ノ蒙古記』)
(『八幡ノ蒙古記』)
赤坂に向う途中の竹崎季長が、元兵の首級を獲得して涼しげな菊池武房以下100余騎と名乗りを交わしたのは、この戦闘の後の出来事です。
一方、散々に駆け散らされた元軍は、菊池武房と別れた竹崎季長が鳥飼に到着した時には、まだ敗走の最中でした。
一方、散々に駆け散らされた元軍は、菊池武房と別れた竹崎季長が鳥飼に到着した時には、まだ敗走の最中でした。
『武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。』
(『蒙古襲来絵詞』)
(『蒙古襲来絵詞』)
竹崎季長は『弓箭の道、先を以て賞とす。唯駆けよ』とわずか主従5騎で追撃を決行しますが、旗指の馬が射殺され、季長以下3騎も痛手を負って危機に陥ります。
しかし、後方から白石通泰が大勢で駆けつけると、またしても元軍はあっさりと蹴散らされてしまいます。
ここでも、竹崎季長と白石通泰は相互に名乗りあい、恩賞請求の際に証人となる約束をしました。
しかし、後方から白石通泰が大勢で駆けつけると、またしても元軍はあっさりと蹴散らされてしまいます。
ここでも、竹崎季長と白石通泰は相互に名乗りあい、恩賞請求の際に証人となる約束をしました。
『季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。』
文永の役の3年前に元と高麗が三別抄と戦った時には、兵員の定数を満たすために、文武の無任所官や奴婢僧侶までも動員する必要がありました。
元軍はこうして掻き集めた訓練度の低い兵士たちを、太鼓や銅鑼によって無理やり前進させたり後退させたりしながら、「高名せすんは一命限り勝負」という覚悟の鎌倉武士たちと戦わなければなりませんでした。
そのため元軍は、菊池武房や白石通泰といった100騎余りの武士団が駆使する集団戦法には、まったく歯が立たなかったのです。
元軍はこうして掻き集めた訓練度の低い兵士たちを、太鼓や銅鑼によって無理やり前進させたり後退させたりしながら、「高名せすんは一命限り勝負」という覚悟の鎌倉武士たちと戦わなければなりませんでした。
そのため元軍は、菊池武房や白石通泰といった100騎余りの武士団が駆使する集団戦法には、まったく歯が立たなかったのです。