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Channel: 元寇の真実

元軍の狙いは何だったのか?

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1274年の文永の役における元軍の動員数は以下のとおりです。
蒙古軍 約2万人
高麗軍 約5500人
非戦闘員 約1万5000人
船 900隻

計 約4万人
元軍がどんなに強くてもこれだけの兵力で日本全土を征服することはできません。
元軍の狙いは一体何だったのでしょうか?
何故、文永の役と弘安の役の2回とも博多湾に襲来したのでしょうか?

元軍が博多湾に襲来したのは、そこに大宰府があるからです。
元軍の兵力は大宰府を攻略するために見積もられたものだったのです。
大宰府は九州の総括府で、海辺防備や東アジアとの交渉はその専任とされてきました。
663年の白村江の戦いの後に唐の侵攻に備えて築かれた、全長1.2キロ、高さ13メートル、基底部の幅80メートルの土塁、水城によって守られています。

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元寇当時、元と高麗が持っていた日本に対する知識はごく限られたものでした。
日本という国がどんな形をしているのかもわかりません。
元のフビライが日本に送った使節も大宰府が対応し、京都や鎌倉を訪れることはありませんでした。
つまり、元と高麗が確実に所在を把握していた日本側の重要な政治機関は、大宰府ぐらいだったのです。

何故か時々「文永の役の原因は鎌倉幕府が元の使節を処刑したこと」だと勘違いしている人がいるのですが、それは間違いで文永の役以前に来日した使節は、全員無事に帰国しています。
その結果、帰国した使節が大宰府周辺の地理や防衛体制を詳細に報告。
1274年に元の大軍が日本に襲来し、大勢の女性や子供・老人といった何の罪もない日本人が、殺害されたり拉致されたりしました。
『八幡愚童訓』には大宰府周辺で偵察活動をおこなう元の使節の様子が、『其牒使、夜々見めくりて、筑紫の地理、船津、運庭、足懸、逃路等に至るまてを、ことことく図し、又、あひあふ人の、やうす想し、所のあないを、しるしなとして、諸事はかりすまして、返りけり』と記されています。

10月20日、博多湾岸に上陸した元軍は、迎え撃った武士たちの奮闘によって大打撃を受け、大宰府や水城に到らぬまま日本から撤退することを余儀なくされました。
本来は前哨戦に過ぎない博多で元軍が敗退してしまったことが、文永の役の全体像を見え難くしているのか、「元軍の目的は威力偵察だった」とか「日本に対する威嚇が狙いだった」とか言う人がいます。
目と鼻の先の博多湾から上陸しながら、大宰府に手付かずのまま帰ってしまったのでは、威力偵察の目的をまったく果たしていませんし、威嚇どころか鎌倉幕府にナメられるだけです。
実際、作戦の中心にいた金沢実時が死亡したために実行されませんでしたが、文永の役の後の鎌倉幕府では、「日本の方から元に侵攻しよう」との攻勢論が支配的だったのです。

1275年、フビライは再び日本に使節を派遣しますが、これに対して鎌倉幕府は適切に処置しました。
使節を鎌倉に護送し、龍ノ口で処刑したのです。
1279年に来日した使節も処刑しました。
そのため、元軍は日本についての新たな情報をほとんど得ることができず、1281年の弘安の役でも大宰府を目指し、鎌倉幕府が迎撃態勢を準備万端に整えた博多湾に攻め込むしかなかったのです。

元寇における高麗について

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1272年、元に入朝していた高麗の世子タンは、元の大ハーンであるフビライに対して以下のように進言しました。

『吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺しょうを保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。既にタンは連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、益々切に效を致す。惟だ彼の日本のみ、未だ聖化を蒙らず、故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵站は方に須むる所在り。儻し此の事を以って臣に委ぬれば、勉めて心力を尽し、小しく王師を助くるに庶幾からん』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)

文永の役はこの2年後です。
何故、高麗王朝はこれ程まで積極的に元の日本侵略に協力しようとしているのでしょうか?
その理由を知るには、元と高麗王朝の関係を知る必要があります。

1231年にモンゴル軍が朝鮮半島に攻め込んだ時、高麗王朝は傀儡に過ぎず、実権は武臣の崔氏に握られていました。
崔氏はやむなくモンゴルに降伏し、朝鮮半島には72人の「ダルガチ」と呼ばれる代官が配置されることになりましたが、「文明先進国」を自任する高麗には、夷狄であるモンゴルに臣従することは我慢できませんでした。
そのため、崔氏は首都を開京から漢江河口に浮かぶ江華島に移して自分たちの安全を確保すると、ダルガチを全員殺害してモンゴルに叛旗を翻したのです。
1232年、報復のために高麗に侵攻したモンゴル軍は、江華島の武臣政権に降伏を迫りましたが、それが受け入れられないとわかると、その横を素通りして朝鮮半島全土を約30年間にわたって蹂躙しました。
江華島の王族や武臣たちが贅沢な暮らしや盛大な祭事にかまけている間に、朝鮮半島はモンゴル軍の略奪と殺戮によって、「骸骨野を覆う」という惨状と化しました。
これが歴史書などで「高麗の官民が一体となってモンゴル軍に激しく抵抗した」とされている期間です。

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1254年からのモンゴル侵攻における高麗の被害は、捕らえられた男女20万6800余人、殺された者は数知れずという甚大なものとなり、1258年、遂に江華島でクーデターが起こって崔氏は滅亡します。
江華島の実権を握った金俊を中心とする武臣たちは降伏を決断し、翌1259年に高麗王朝の世子テンをモンゴルに入朝させました。
この年はモンゴル帝国内においても大ハーンのモンケが死去し、その後継者の地位をフビライとアリク・ブケという2人の有力者が狙うという激動期でした。
こうした状況の中、世子テンは襄城郊外でフビライに謁見して支持を表明し、その武力を借りて高麗の権力を武臣たちの手から王室に取り戻すことを決意します。
1260年、テンは今まで散々高麗を蹂躙してきたモンゴル軍に守られて帰国すると、第24代高麗国王に即位して元宗となりました。

1264年にアリク・ブケとの内乱に勝利して大ハーンの地位を確固たるものにしたフビライは、1271年にモンゴル帝国の国号を「元」と定めました。
一方の元宗は元の威光を背後に王政復古を進め、1270年に江華島から開京に遷都し、それを不服とする武臣たちの最後の抵抗「三別抄の乱」もモンゴル軍の支援によって鎮圧します。
武臣たちを排除した高麗王朝は、朝鮮半島を支配していくために、元の軍事力に大きく依存していました。

1274年の文永の役の直前に元宗が死亡すると、フビライに日本侵略を進言した世子タンが忠烈王として第25代高麗国王に即位します。
忠烈王の「忠」は元朝に対する忠誠を示すもので、この後、第30代忠定王まで高麗国王の名前には最初に「忠」の字が付くことになります。
文永の役は元・高麗連合軍の大敗に終わりましたが、日本から拉致された童男童女200人は戦利品として忠烈王に献上されました。
モンゴル皇族の妻を娶り、服装や髪型をモンゴル風に改めた忠烈王は、更に元朝に接近して自らの地位を高めるために、「日本侵略」というカードを徹底的に利用しました。
1278年にはフビライに対して次の日本侵略を進言。

『日本は一島夷のみ、険を恃みて庭せず、敢えて王師に抗す。臣自ら念うに、以って徳に報ゆるなし。願わくは、更に造船・積穀し、声罪・致討して、蔑てて済わざらんことを』
(『高麗史日本伝』 武田幸男・編訳 岩波書店)

こうして行なわれた1281年の弘安の役において、対馬・壱岐の住民に対する殺戮の中心となったのは、高麗の兵士たちでした。

『其中に高麗の兵四五百船、壱岐、対馬より上りて、見かくる者を打ころし、らうせきす、國の民ささへかねて、妻子を引具し、深山に逃かくる、さるに赤子の泣こえを聞つけて捜りもとめて捕らえけり』
(『八幡ノ蒙古記』)

元寇で被害にあった地域には、その際の残虐行為の代名詞として「ムクリコクリ」という言葉が今でも残っているそうです。
「ムクリ」は蒙古、「コクリ」は高麗の訛ったものです。
当時の日本人の認識では、モンゴル兵と高麗兵はまったくの同罪でした。
弘安の役で日本に襲来した元軍の内約2000人が捕虜となりましたが、鎌倉幕府は仕方なく参加させられた旧南宋出身の兵については助命したものの、高麗兵はその他のモンゴル兵などと一緒に全員処刑しています。

この後も高麗の忠烈王はフビライに対して、日本侵略をしつこく唆し続けました。

『高麗国王、自ら船一百五十艘を造り征日本を助けんことを請う』
(『旧唐書倭国日本伝・宗史日本伝・元史日本伝』 石原道博・編訳 岩波書店)

元寇において高麗が消極的であったかのような大嘘を吹聴し続ける歴史家がいることは悲しいことです。

史料の信頼性について

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元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。
この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。
へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。
イギリス史の本に書かれているへイスティングズの戦いの記述は、ほとんどがこの『バイユー・タぺストリー』から復元されたものです。

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一方、元寇についてもその詳細を描いた『蒙古襲来絵詞』が残されています。
その描写は精密で、当時の武士たちによる合戦の様子を詳しく知ることができるのみでなく、モンゴル軍の軍装などを研究する上で世界的にも貴重な史料です。
また、絵だけでなく詞書として添えられた文章にも、文永の役と弘安の役での戦闘や、鎌倉での恩賞訴願などの様子が記されています。

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ところが何故か元寇に関しては、武士の用いた戦術や戦闘の経過について、『蒙古襲来絵詞』の内容があまり活用されていません。
絵巻に登場する武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
絵巻に描かれた元兵たちは皆情け容赦なく狩り立てられ、負傷し、逃げ惑っていますが、通説では日本軍が一方的に劣勢だったことになっています。
これは大変おかしなことです。
何故なら『蒙古襲来絵詞』を作成した竹崎季長は、文永の役と弘安の役で自ら戦闘に参加した武士だからです。

例えば、紀元前四世紀にギリシアからインド西部にまたがる大帝国を築いたアレクサンドロス大王について、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』、プルタルコスの『英雄伝』、ディオドロスの『歴史集成』、クルティウスの『アレクサンドロス伝』、ユスティヌスの『フィリッポスの歴史』の5つの伝記が現存しています。
その中で、戦闘の記述に関して世界中の歴史家から最も信頼性が高いと思われているのは、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』です。
それはアリアノスの大王伝が、アレクサンドロスの側近として自ら戦闘に参加したプトレマイオスの記述を原典としているからです。
戦局の推移やそこで用いられた戦法について正確に記述するためには、軍事に関する高度な専門知識が必要です。
軍人として戦闘に参加した人物の記述が、最も信頼性が高いと考えるのは当然のことです。

世の中には、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞を得るために描かせた絵巻だと、勘違いしている人が大勢います。
だから「武士たちが優勢に描かれているのは当然」だというのです。
どうやら、絵巻では明らかに日本軍優勢な点が気に入らない人たちによって、嘘が広められているようです。
竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。

絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。
文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。
『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。

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元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちの戦功を査定する立場にあった安達泰盛に対して、戦局を自分たちの優勢に歪曲した絵巻を作成することが、追悼になるはずがありません。
『蒙古襲来絵詞』について、「武士たちが優勢に描かれているのは当然」などということは言えないのです。

過去の日本人の元寇に対する認識

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戦後、私たちは元寇について「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」のだと教えられてきました。
そして、この奇跡的な元寇の幸運を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」日本人は、自国に対する神国観念を彫磨させ、そのことが明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと導いたのだと教えられてきたのです。

江戸時代の歴史家・頼山陽が書いた『日本外史』という歴史書があります。
これは、源平二氏から徳川氏まで武家の興亡を漢文体で記したもので、『平家物語』や『太平記』と並べて、広く日本人に愛読された歴史書です。
漢文を訓み下し文にしたものが、岩波書店から出版されています。
『日本外史』は元寇の戦闘について以下のように記しています。

『(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。』

『(弘安)四年七月、水城に抵る。舳艫相ひ銜む。実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。矢、その左の肘に中る。道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。未だ到らず。閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。』
(『日本外史』 頼山陽・著 頼成一・頼惟勤・訳 岩波書店)

「虜」というのは敵を罵っていういい方で、この場合は元のこと。
『日本外史』の記述では、文永の役は完全に武力のみで元軍を撃退したことになっています。
弘安の役の「大風雷」も、単に日本に有利に作用した気象現象に過ぎず、「神風」などという言葉はどこにも出てきません。
幕末から明治にかけて最も多くの日本人に読まれた歴史書の認識では、元寇の勝利は鎌倉武士の奮戦によるものなのです。
日本人が元寇の勝利を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」などという話は大嘘でした。

それから時代が下って近代になると、白鳥倉吉博士によって書かれた『国史』という歴史書があります。
これは昭和天皇のための歴史教科書として書かれたもので、そのままの文体のものも出版されていますが、現代語訳が講談社から出版されています。

『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』

『このため、元はまた大挙して攻めてきて、その軍は壱岐、対馬をへて博多と肥前の沿岸にも迫りましたが、南海、西国の将兵がよく防ぎました。また、偶然にも大暴風雨がおそい、敵の船は破壊され、多くの兵が溺死し、残った軍はあわてふためいて逃げかえりました。弘安四年のことでありましたので、これを弘安の役といいます。』
(『昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳)』 白鳥倉吉・著 出雲井晶・訳 講談社)

文永の役についても、弘安の役についても、基本的に『日本外史』と同じ認識です。
『国史』の見解では、元寇の勝因は『元軍にとって、海路から迫ることが困難であったといえども、これはわが将兵が奮戦したことと執権時宗の勇気ある決断が措置をあやまらなかったことによるものであったというべきでしょう』とのことです。
勿論この『国史』は昭和天皇のための歴史教科書ですから、一般向けの歴史教科書とは異なります。
大正時代になると、一般向けの歴史教科書では、弘安の役の暴風雨を「神風」とする明治時代にはなかった記述が、初めて登場します。

『元はすつかり支那を従へ、その勢いで、弘安四年に、四万の兵朝鮮半島からふたたび筑前にさし向け、別に支那からは十万の大兵を出した。朝鮮半島から来た敵兵は、壱岐ををかして博多に攻寄せて来たが、菊池武房や河野道有・竹崎季長らの勇士は、石塁にたてこもつて防いだり、勇敢にも敵艦へ斬りこんだりして、大いにこれを苦しめた。そのうち、支那から来た大軍が、これといつしよになつて、今にも攻寄せて来ようとした。その時、にはかに神風が吹きおこつて、敵艦の大部分は沈没し、溺れて死ぬものは数へきれないくらゐであつた。』
(『尋常小学国史』)

「神風」は登場しましたが、それ以前の武士たちの奮戦も強調しています。
それは、弘安4年6月6日に博多湾に迫った元の艦隊が、閏7月1日に「神風」に遭遇するためには、約2ヶ月間に渡って上陸を阻んだ武士たちの奮戦が、必要不可欠の要素だからです。
また、この時期の教科書でも、元軍が大風に遭遇したとされたのは弘安の役のみです。
元寇が、「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」という私たちのよく知っているスタイルに変化したのは、戦後、GHQの占領下で作られた第七期国定教科書『くにのあゆみ』からでした。

『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることができました。』

『こののち、弘安四年(西暦一二八一年)七月には、四千四百せきの船に、十四万の大兵を乗せて、ふたたび博多湾に攻めよせてきました。この時もまた大あらしがおこつて、敵の船を吹きちらしてしまひました。』
(『くにのあゆみ』)

第二次大戦後、日本を占領したGHQは、「日本を武装解除し長期的に弱小国の地位にとどめる」という戦略のもと、歴史教育にも介入しました。
GHQの認識では「武士」=「軍人」でしたから、武士の登場する記述には、その内容に関係なく問答無用で墨が塗られていきました。
このような状況下で、元軍の日本侵略を阻止した鎌倉武士たちの奮戦も消され、文永の役と弘安の役の勝利は、2回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまったのです。

戦後、私たちが元寇について聞かされていた話は、全て政治的に捻じ曲げられものでした。

鎌倉武士は一騎討ち戦法で戦ったのか?

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『蒙古襲来絵詞』に描かれた鎌倉武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。
それは、『蒙古襲来絵詞』と並んで元寇の戦闘経過を記した基本資料の一つである『八幡愚童訓』に、鎌倉武士たちが「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」と解釈できる文章があるからです。
『八幡愚童訓』には多くの異本があるのですが、よく歴史書などで引用されているのは岩波書店の日本思想大系20『寺社縁起』に収められているもので、これは鎌倉末期の写本と考えられている『菊大路本』を底本としています。

『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処、此合戦ハ大勢一度ニ寄合テ、足手ノ働ク処ニ我モ我モト取リ付テ押殺シ、虜リケリ。是故懸ケ入ル程ノ日本人漏レル者コソ無リケリ』
(『八幡愚童訓』)

この『日本ノ戦ノ如ク、相互二名乗リ合テ、高名不覚ハ一人宛ノ勝負ト思フ処』という文章を唯一の根拠として、鎌倉武士が一騎討ち戦法で元軍と戦ったことになっているのです。

『八幡愚童訓』の異本の一つに、江戸後期の国学者・歌人の橘守部に所蔵されていた『八幡ノ蒙古記』があります。
橘守部によれば、これは元寇の一部始終を目のあたりにした箱崎八幡宮の社官留守図書允定秀によって正応2年(1289年)に書かれたもので、『八幡愚童訓』の原本とのことです。
三弥井書店から出版されている小野尚志・著『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』の中に翻刻されたものが収められています。
例の『八幡愚童訓』で一騎討ち戦法の根拠とされている文章は、『八幡ノ蒙古記』では『日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に』となっています。
「日本ノ戦ノ如ク」ではなく「日本の軍の如く」、「高名不覚ハ一人宛ノ勝負」ではなく「高名せすんは、一命かきり勝負」なのです。
これは一騎討ち戦法を意味する文章ではありません。
何故なら『蒙古襲来絵詞』の中で、日本の軍は相互に名乗り合っているからです。

『葦毛なる馬に紫逆沢瀉の鎧に紅の母衣懸けたる武者、其の勢百余騎計りと見へて、凶徒の陣をてやぶり、賊徒追ひ落として、首二、太刀と薙刀の先に貫きて、左右に持たせてま□□□と由々しく見へしに、「誰にて渡らせ給候ぞ。涼しくこそ見え候へ」と申に、「肥後国菊池次郎武房と申す者に候。斯く仰せられ候は誰ぞ」と問ふ。「同じき内、竹崎五郎兵衛季長駆け候。御覧候へ」と申て馳せ向かふ。』
(『蒙古襲来絵詞』)

このように戦場で味方同士の武士たちが名乗り合うのは、自分の名前を覚えてもらうことによって、後の恩賞請求の際に証人となってもらうためです。
鎌倉武士たちは、「元軍に名乗りを上げて一人ずつ戦った」のではなく、「日本軍同士で名乗りあって証人となり、高名のために一命を賭して戦った」のです。
恐らく、『八幡ノ蒙古記』を資料として『八幡愚童訓』が作成された際に、文章の意味が変わってしまったものと思われます。

実際には、文永の役で鎌倉武士たちは、一騎討ち戦法ではなく、集団戦法を用いて元軍と戦っていました。
『八幡ノ蒙古記』には、姪の浜に上陸した元軍が、赤坂で菊池次郎武房の集団戦法によって撃破されるようすが記されています。

『ここに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分け、おしよせて、さんさんに、かけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうとう等、多くうたれにけり、いかしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ』
(『八幡ノ蒙古記』)

赤坂に向う途中の竹崎季長が、元兵の首級を獲得して涼しげな菊池武房以下100余騎と名乗りを交わしたのは、この戦闘の後の出来事です。
一方、散々に駆け散らされた元軍は、菊池武房と別れた竹崎季長が鳥飼に到着した時には、まだ敗走の最中でした。

『武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く。』
(『蒙古襲来絵詞』)

竹崎季長は『弓箭の道、先を以て賞とす。唯駆けよ』とわずか主従5騎で追撃を決行しますが、旗指の馬が射殺され、季長以下3騎も痛手を負って危機に陥ります。
しかし、後方から白石通泰が大勢で駆けつけると、またしても元軍はあっさりと蹴散らされてしまいます。
ここでも、竹崎季長と白石通泰は相互に名乗りあい、恩賞請求の際に証人となる約束をしました。

『季長以下三騎痛手負ひ、馬射られて跳ねしところに、肥後国の御家人白石六郎通泰後陣より大勢にて駆けしに、蒙古の軍引き退きて麁原に上がる。馬も射られずして、夷狄の中に駆け入り、通泰通かざりせば、死ぬべかりし身なり。思いの外に存命して、互ひに証人に立つ。筑後国の御家人光友又二郎、首の骨射通さる。同じく証人に立つ。』
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(『蒙古襲来絵詞』)

文永の役の3年前に元と高麗が三別抄と戦った時には、兵員の定数を満たすために、文武の無任所官や奴婢僧侶までも動員する必要がありました。
元軍はこうして掻き集めた訓練度の低い兵士たちを、太鼓や銅鑼によって無理やり前進させたり後退させたりしながら、「高名せすんは一命限り勝負」という覚悟の鎌倉武士たちと戦わなければなりませんでした。
そのため元軍は、菊池武房や白石通泰といった100騎余りの武士団が駆使する集団戦法には、まったく歯が立たなかったのです。

元寇史料

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日本・元・高麗の史書に書かれた文永の役。

『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』
(『鎌倉年代記裏書』)

『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』
(『元史日本伝』)

『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』
(『高麗史表』)

弘安の役における元軍の壊滅。

『八月一日、風舟を破る。五日、文虎等の諸将、各々自ら堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師となし、これを号して張総管といい、その約束を聴く。方に木を伐りて舟を作り還らんと欲す。七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを得たる者三人のみ』
(『元史日本伝』)

『閏七月朔、賊船ことことく、漂蕩して海に沈みぬ、・・・鷹島に打上られたる異賊、数千人、船なくて疲れ居たりしか、破船ともを、つくろひて、蒙古人、高麗人、七八艘うちのりて、逃んとするを、鎮西の軍兵とも、少弐三郎左衛門景資を大将として、数百艘おしよせたりしかは、異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、なしにけるとそ、又、かの長門の浦に吹入られたる、大将のふねともは、閏七月五日、関東より、はしめて、甲田五郎、安藤二郎着して、其手の者、新左近十郎、今井彦次郎等を一手とし、九國の兵、より集りて、いく手になりて、おしよせ、皆うちとる、但し、ことことくに、殺し尽しても、こたひの神の威徳を、しらて止へけれはとて、只三人を、たすけて、汝が王に事の趣を、いつはらす、いひきけよと、いひつけて、小舟にのせて、おひ返す』
(『八幡ノ蒙古記』)

1259年2月9日

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戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。
そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。
これは本当でしょうか?
実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。

〔新御式目〕 
 條々
一、可被祟敬佛神事、
  九州為宗神社、破壞以下所遂檢見、且可令注進、損色之由所被仰使者也、但於遠所者、使者
  檢見為難渋者、可計沙汰、
一、次香椎社造営事、
  筑前國怡等庄為料所、可造営之由被宣下、年記之處々、不終其功云々、云未作分限云當社之
  所土可為注進、○中略
一、城郭事、
  次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、
一、寄役所致自由合戦、
  縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人
  以下輩也、
一、兵糧米事、
  先々可無其虚歟、殊加談義可令注進、
一、警固詰番事、
  為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、
一、兵船事、
  海上合戦、更不可有其利歟、同前、
一、大隈日向両国役所、今津役濱事、
  先度雖除之、為要海云々、如元警固 ○中略
   正嘉三年二月九日
                              武蔵守 判
                              相模守 判
                                   (福岡県史資料)

これは、正嘉3年(1259年)2月9日に鎌倉幕府が、後の文永の役の戦場である博多湾沿岸地域の防衛強化を命じた資料です。
海上合戦の是非や今津沖の警固に言及した内容から、鎌倉幕府が警戒しているのは海外からの侵攻であることが分かります。
また、城郭修築や兵糧米について言及していることを考えれば、想定されているのが大規模な侵攻であることもあきらかです。
一体何故、鎌倉幕府はこの時期に海外からの大規模な侵攻を、警戒する必要があったのでしょうか?
その理由を知るためには、当時の大陸情勢に目を向ける必要があります。

1257年春、モンゴル帝国の大ハーンであるモンケは南宋侵攻を宣言。
1258年には、朝鮮半島で長年のモンゴル軍の侵略によって求心力を失った崔氏政権が崩壊し、北ベトナムでも陳朝がモンゴル帝国への入貢を余儀なくされています。
この年の7月、モンケは南宋征服のため自ら大軍を率いて六盤山を出発し、10月に四川へと侵攻。
加えて、11月にモンケの弟のクビライも開平府から鄂州へ向って南下を開始し、翌1259年正月には名将ウリャンカダイが雲南からベトナムを経由して江西に攻め込んでいます。

1259年2月9日は、大ハーンのモンケのもと、モンゴル軍が東アジア全域で大規模な侵攻作戦を行なっている真っ最中でした。
つまり、鎌倉幕府は大陸におけるモンゴルの脅威が頂点に達したその瞬間に、博多湾沿岸地域の防衛強化を命じていたのです。
鎌倉幕府が大陸情勢に無知だったという戦後の歴史研究者たちの説明は嘘でした。
真実の鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事と捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていたのです。

更にその内容も的確で、軍事のプロフェッショナルである武家政権の面目躍如といった感があります。
例えば、「自由に合戦して例え抜群の手柄を立てても、それに恩賞を与えることはない。大将の指示に従い、進退は命令通りしなければならない」と、九州の守護や御家人に集団戦法徹底を命じている点は、とても重要です。
文永の役の際に、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなどという通説も嘘でした。
また、岩門大宰府の城郭修築を命じている点も注目に値します。
大陸で縦横無尽に暴れまわるモンゴル軍に対し、強い警戒感を抱く鎌倉幕府が、大宰府などの強固な城郭に拠って迎え撃とうと考えたのは当然でした。

こうして準備万端の状態で迎えた文永の役は、日本軍の完勝に終わりました。
博多湾から上陸したモンゴル軍は、鎌倉幕府が防衛ラインに設定していた大宰府に到達することすらできないまま、たった1日の戦闘で撃退されたのです。
鎌倉武士の集団戦法の前には、モンゴル軍も敵ではありませんでした。

史料から読み解く文永の役

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長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。
その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。
現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。
 
現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞 安国論私抄』があります。
これは室町時代の僧である日朝によって執筆された『立正安国論』の注釈書で、第一巻には文永の役関連の文献の引用と日朝による解説が収められています。
言わば、元寇の約200年後に編纂された文永の役の史料集であり、その中にはよく知られた『八幡愚童訓』などと共に、他では見ることのできない貴重な記事が多数含まれているのです。
 
『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事
 
或記云蒙古イケドリ白状云、蒙古年號至元十一年三月十三日蒙古國ヲ出高麗國カラカヤコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢集テ、同九月二日ニカラカヤノ津出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古物三人生残了、又四日船一艘焼亡出來、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船数ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、

1020日に百道原へ上陸した元軍が、文永の役直前に元本国から高麗へ派遣された部隊であったということは、『蒙古襲来絵詞』に描かれている元兵が精鋭の蒙漢軍であったということを意味します。
これまでの定説は、然したる根拠も無いまま百道原へ上陸した部隊を、金方慶に率いられた高麗軍と説明していたのです。

又、『朝師御書見聞 安国論私抄』には以下のような記事もあります。

『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事
 
又或記云十一歟月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙、数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アク郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是見ユル分齊也、又十一月九日ユキセト云死タル蒙古人百五十人、又總生捕二十七人、頭取事三十九、其他数シラズ、又日本人死事百九十五人、下郎数ヲ不知有事云云
 
文永の役において、暴風雨に遭遇した元船が九州一帯の海岸に多数漂着したというのは、『勘仲記』十一月六日条(1)『國分寺文書』(2)の記述と一致します。
元艦隊の暴風雨遭遇の場所については諸説あったのですが、漂着船の数が壱岐のみ突出して多く、壱岐沖こそが元艦隊の暴風雨遭遇の場所だと考えられます。
そして、元艦隊が壱岐沖で暴風雨に遇ったということは、敵側史料である『高麗史』世家・忠烈王(3)の記述と一致するのです。
 
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金侁、溺死す。」
 
『高麗史』では列伝十七 金方慶伝(4)に最も詳細な文永の役の記述があり、そこには博多湾から上陸した後の戦闘も記されているとされてきました。
金方慶伝の記述を、「蒙漢軍を共に博多湾から上陸した高麗軍は、夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」と解釈してきたのです。
 
しかし、『高麗史』は年表(5)でも「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」としており、金方慶伝に博多上陸後の記述があるとした場合、世家年表の内容と矛盾することになってしまいます。
金方慶伝も「軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」としている以上、元軍の暴風雨遭遇が壱岐沖ならば、「夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定した」場所も、壱岐だと考えるしか無いのです。
恐らく元軍は兵の疲労を考慮し、壱岐攻略は高麗軍を中心とする半島の兵だけで行い、九州侵攻に温存した精鋭の蒙漢軍を投入したのではないかと考えられます。
 
10月20日に蒙漢軍が百道原へ上陸した後の戦闘経過については、佐藤鉄太郎氏による素晴らしい研究(6)があります。
『蒙古襲来絵詞』を筆頭に『大友頼奏覆勘状写』(7)『福田兼重申状写』(8)『日田記』(9)など当時の武士による記録が残っていますが、いずれも戦場を赤坂以西の鳥飼潟や百道原としたもので、あきらかに日本軍が優勢に戦っているのです。

イメージ 1

 
これまでの元寇研究は『八幡愚童訓』という縁起物語を根本史料としていたため、文永の役で鎌倉武士は元軍に圧倒され、博多も占領されて焼失したとしてきました。(10)
そして、日本軍の優勢を示す諸史料との辻褄を合わせるために、百道原へ上陸した部隊を高麗軍とし、全く史料的裏付けの無い「博多正面から上陸した元軍本隊」なるものを創造した挙句、この架空の部隊によって博多が焼き払われたことにするという本末転倒な説明がなされてきたのです。
しかしながら、中世の史書、同時代人の日記や手紙、承天寺・聖福寺・櫛田神社といった神社仏閣の記録など関連史料をいくら調べても、文永の役において博多が焼き払われたなどという記述は存在しません。
『八幡愚童訓』の記述は、全くの出鱈目でした。
元寇研究においても他の歴史事項と同様の史料批判が行われていれば、『八幡愚童訓』のような縁起物語が根本史料として採用されるはずは無かったのです。
 
実際には、文永の役における九州の戦闘は、日本軍の苦戦ではありませんでした。
叡尊の『金剛仏子叡尊感身学正記』11「(蒙古人は)即退散した」とし、『帝王編年記』12「合戦で賊船一艘を取り留め、その外は皆追い返した」という報告を受けたとしています。
上陸した元軍は、迎え撃った日本軍によって速やかに撃退されたのです。
 
九州から壱岐へと逃げ帰った元軍総司令官の忽敦は、高麗軍を率いる金方慶と協議の末、日本からの撤退を決断しました。
忽敦が撤退を急いだ背景には、『高麗史』に記されているように、壱岐においても夕暮れまで日本軍の激しい追撃を受けていたという事情がありました。
『歴代皇紀』131020日に大宰府の兵船300余艘が出航して元艦隊を追ったとし、『菊池系圖』14やその別本15は赤星有隆が壱岐対馬での元軍追撃戦において武功をあげたとしています。
他にも『松浦党大系圖』16が、蒙古合戦に参戦した山代諧の討死した場所を対馬としています。
105日の元軍襲来時に肥前の御家人である山代諧が対馬に居たはずがありませんから、山代諧は元軍に対する追撃戦で戦死したと考えるしかありません。
佐志房が3人の息子とともに戦死し(17)、日蓮が「松浦党は数百人打れ」と言及するなど(18)、従来から文永の役において松浦党に多くの犠牲者が」でたことは知られていましたが、その経緯については不明な点が多くありました。
松浦党は元軍の対する壱岐対馬の追撃戦で、多くの犠牲者を出したのです。
 
日本軍の追撃から逃れるため危険を賭して夜間に壱岐を発った元の艦隊は、沖合で悪天候に見舞われて多くの損害を受けました。
『元史』日本伝(19)は、四境(国境)である対馬壱岐を「唯虜略して帰った」とし、惨敗に終わった九州での戦闘に言及することを避けています。
『鎌倉年代記裏書』(20)は、元の難破船が浦々に打ち上げられた10月24日を「異賊敗北」の日としています。
 
1)『勘仲記』「十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、」
2)『國分寺文書 薩藩奮記』「就中蒙古凶賊等來著于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」
3)『高麗史』 巻二十八 世家二十八 中烈王一「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗、金侁溺死、」
4)『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、�莞聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
5)『高麗史』巻八十七、表二 年表二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
6)佐藤鉄太郎「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」、『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、20033
7)『大友頼泰覆勘状写 都甲文書』「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如如、文永十一年十二月七日 頼泰 都甲左衛門五郎殿」
8)『福田兼重申状 福田文書』「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
9)『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
10)『八幡愚童訓』「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」
11)『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
12)『帝王編年記』「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
13)『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
14)『菊池系圖』「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
15)『菊池系圖』別本「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
16)『松浦党大系圖』「山代 廣生諧字彌三郎。文永十一年。蒙古合戦討死。干對馬。」
17)『弘安二年十月八日関東下知状 有浦文書』
18)『日蓮書状』「松浦党は数百人打れ、或は生取にせられしかは、寄たりける浦々の百姓とも、壱岐・対馬の如し、」
19)『元史』卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」
20)『鎌倉年代記裏書』「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

史料から読み解く文永の役 2

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文永の役に関して、著者が明確で同時代性が高く情報量も多い史料が存在することを知りましたので、報告したいと思います。

『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事

九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎
来事、
文永五年正月一日、新左衛門尉経資
請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国
大宰府、彼状豊前新左衛門尉経資請取、大田
次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波
羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守
氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人以被進公家、於仙洞
菅宰相長成卿被召被読条状也、
同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之
船対馬来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)
允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古雖打取資国子
息等悉討死畢、同十四日蒙古人壱岐
押寄守護代平内左衛門尉影高(景隆)
等構城郭雖合戦、蒙古人乱入之間影高
等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国
博多・箱・今津・佐原賊来、同廿日辰尅
少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉
(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)
郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池
次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之
間、両方死輩不知其数、及酉尅九国
軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出
来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕ニアリ、仍蒙古人同廿一日
卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島
乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損
之船百余艘在々処々被打寄生
取四人、一杜肺子・二白徳義・三六郎・
四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ
鏑聲シテ西ヲ指シテ行、
有人夢見、北野天神御歌
       神風仁蒙古賀和散波多々
底之花久津登成曾宇礼志幾
自他国
国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度
此中蒙古人十度也、建治元年九月六日
酉尅前後生取九人被切也、
文応元年庚申聖人(日蓮)立正安国論
進覧西明寺(北条時頼)殿、 

坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料 -安房妙本寺本「日本図」とその周辺―」 金沢文庫研究 (311) 2003年10月
 
著者は日蓮の弟子の日向(12531314)。
坂井法曄氏はこの史料の成立を1278年頃と推測しています。
 
この史料によって、文永の役の際のモンゴル軍の撤退状況にかんする認識は、大きな変更を余儀なくされるでしょう。
まず、従来は日本側に気付かれることなく撤退に成功したと考えられていたモンゴル軍の撤退時刻が、「廿一日卯尅」と明記されていることです。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。
 
また、「破損之船百余艘在々処々被打寄」という記述も重要です。
これまでもモンゴル艦隊の遭難を伝える史料はいくつか知られていたものの、それが何時何処で如何なる状況のもとで起こったのかについては、明確な結論がでていなかったのです。
モンゴル側史料である『高麗史』は遭難の状況について以下のように記しています。

『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶

及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、
 
「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。
『金綱集』によって、これまで曖昧にされていたモンゴル艦隊の遭難が、1020日の夜、博多湾内の出来事であったと特定されたことになります。
残念ながら前回このブログに書いた説は、『金綱集』の出現によって成立しなくなりました。
 
実は、文永の役においてモンゴル軍の船100余艘が遭難したという記録は、『金綱集』だけではありません。
荒川秀俊氏による神風論争では何故か無視されていたのですが、『皇年代略記』にも「文永十一年十五蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百余艘漂倒。」という記事があるのです。
1021日のモンゴル船100余艘漂着の報告が1030日に京都へ届いたというのであれば、文永の役当時に大宰府から京都まで飛脚の必要とする日数が910日とされている点とも一致します。
これまでの定説では、モンゴル軍博多撤退の報が京都へ届いたのは『勘仲記』『帝王編年記』の記述から116日とされていたのですが、実際にはそれよりも早い1030日だったのです。
 
では、116日に京都へもたらされた報告は、一体如何なるものだったのでしょうか。
『勘仲記』『帝王編年記』には、以下のように記されています。
 
『勘仲記』

十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、

 『帝王編年記』

十月十七日。自九国早馬到来于六波羅。是去三日蒙古賊人於対馬嶋合戦云々。十八日。依蒙古事於院有議定。廿八日。筑紫飛脚到来。壱岐嶋被打取云々。十一月三日。於院御所陰陽頭在清朝臣已下蒙古間事有御占。六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。
 
これまでの文永の役に対する考察の中で見落とされていたのは、モンゴル艦隊の博多湾撤退だけで戦闘が終わるわけではないという点です。
博多湾を出たモンゴル艦隊が他の沿岸地域を襲撃する可能性や、壱岐・対馬を占領し続ける可能性が残されているからです。
実際、刀伊の入寇や弘安の役においては、敵軍の博多湾撤退後も戦闘が継続しています。
しかしながら、『勘仲記』によれば116日時点で、京都においてモンゴル軍は本国へ去ったと認識されているのです。
これは日本側が博多湾撤退後のモンゴル軍の動向を把握していたことを意味します。
『帝王編年記』にしても、対馬や壱岐が打ち取られたと報告している以上、そのままの状態では皆追い返したと言えないでしょう。
『朝師御書見聞』には1024日の日付で、対馬・壱岐など九州近海の各地からモンゴル軍の漂着船について、報告を受けていた記録も残されています。
 
『朝師御書見聞』 安国論私抄 第一 蒙古詞事

又或記云十月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アク郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是目見ユル分齊也、
 
116日以降、モンゴル軍の動向が大宰府から京都へ報告されたとする史料はありません。
116日の飛脚は、日本領内からモンゴル軍を完全に駆逐したことを告げる大宰府からの最終報告なのです。

史料から読み解く文永の役 3

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朝鮮・高麗時代の政治家・儒学者・詩人である李斉賢(1287年~1367年)の著書『益斎乱藁』に、文永の役における高麗軍についての記事があります。
 
『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還

 
実は、『元史』にも『益斎乱藁』と類似する記事があります。
東征右副都元帥として文永の役に参加した洪茶丘の伝です。
 
『元史』 卷一五四 列傳第四十一
與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島。

 
「伊蠻」「宜蠻」とは今津のことです。
つまり、高麗軍と洪茶丘は対馬と壱岐を攻略した後、九州においては今津で共に戦っていたのです。
元・高麗側の史料で文永の役について最も詳細に記述しているのは、『高麗史』列伝にある金方慶伝です。
 
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み、殺す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く少しも却かず、一嗃矢を抜き、声大喝するに、倭辟易して走る。之亮・(金)忻・忭・李唐公・金天禄・辛奕等力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」 とあり、我が師少なしと雖も、已に敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、淮陰の背水なり。請う、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。会々、夜、大いに風雨す。戦艦、岩に触れて多く敗れ、(金)侁は水に墮ちて死す。
(武田幸男・編訳 『高麗史日本伝』 岩波書店)

 
「三郎浦」とは早良のことです。
『益斎乱藁』の記述を踏まえると、高麗軍は早良から上陸して今津を破ったのであり、金方慶伝はその記録ということになります。
恐らく高麗軍は征東右副都元帥・洪茶丘の指揮下「舟師」に編成されて今津方面へ侵攻し、残りの主力部隊が征東左副都元帥・劉復亨に率いられて百路原赤坂方面へ侵攻したのでしょう。
今津は、1271919日に元使・趙良弼等100余人が軍船様の船で到着した港でした。
遠征軍の上陸は揚陸用の小舟で行いますが、補給物資などの荷揚には大型船の停泊できる港の確保が必要です。
港である今津征圧の任務を「舟師」である洪茶丘と高麗軍が担当するのは、作戦として自然です。
 
高麗軍の侵攻方向は通説と完全に逆ですから、九州における戦闘の認識も大幅に見直さなければなりません。
文永の役の際、高麗軍は今津において日没まで日本軍と激しい戦闘を繰り広げました。
加えて、最終的には遠征軍の総司令官・忽敦以下の諸軍も今津に集結しています。
忽敦、洪茶丘、金方慶による軍議も今津で行われました。
このことは、遠征軍が日没までに早良、百路原、赤坂といった拠点を喪失し、今津へ追い詰められていたことを意味します。
百路原で少弐景資と交戦したとされる劉復亨は矢傷を負い、先に乗船しなければならない有様でした。
遠征軍の命運はまさに風前の灯火で、まさに「軍を回すに若かず(撤退以外の選択肢がない)」という状態だったのです。