文永の役に関して、著者が明確で同時代性が高く情報量も多い史料が存在することを知りましたので、報告したいと思います。
『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事九十代、今上御宇(亀山天皇)、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国大宰府ニ、彼状豊前新左衛門尉経資請取、大田次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木(「前」脱カ)対馬守氏信・伊勢入道(二階堂行綱)行願二人ヲ以被進公家、於仙洞菅宰相長成卿被召被読条状也、同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之船対馬仁来、同六日辰剋守護代宗馬(メノ)允資国等防キ戦之、(「蒙」脱カ)古雖打取資国子息等悉討死畢、同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高(景隆)等構城郭雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国博多・箱・今津・佐原賊来、同廿日辰尅少郷入道覚恵(武藤資能)・子息三郎左衛門尉影(景)資・大友出羽守頼泰并以読(ママ)次郎左衛門尉重秀・難波次郎(在助)・菊池次郎(康成)、九国御家人等馳集令合戦之間、両方死輩不知其数、及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白〔弓偏ニ牟〕(鉾カ)梅○〔弓偏ニ牟〕空ニアリ、仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三六郎・四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌神風仁蒙古賀和散波多々底之花久津登成曾宇礼志幾自他国国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度此中蒙古人十度也、建治元年九月六日酉尅前後生取九人被切也、文応元年庚申聖人(日蓮)造立正安国論進覧西明寺(北条時頼)殿、坂井法曄「日蓮の対外認識を伝える新出資料 -安房妙本寺本「日本図」とその周辺―」 金沢文庫研究 (311) 2003年10月
著者は日蓮の弟子の日向(1253~1314)。
坂井法曄氏はこの史料の成立を1278年頃と推測しています。
この史料によって、文永の役の際のモンゴル軍の撤退状況にかんする認識は、大きな変更を余儀なくされるでしょう。
まず、従来は日本側に気付かれることなく撤退に成功したと考えられていたモンゴル軍の撤退時刻が、「廿一日卯尅」と明記されていることです。
『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本の「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」という記述は、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退した後だった」ではなく、「夜が明けた二十一日の朝に海面を見たら、蒙古の船が皆撤退して行った」と解釈するべきだったのです。
また、「破損之船百余艘在々処々被打寄」という記述も重要です。
これまでもモンゴル艦隊の遭難を伝える史料はいくつか知られていたものの、それが何時何処で如何なる状況のもとで起こったのかについては、明確な結論がでていなかったのです。
モンゴル側史料である『高麗史』は遭難の状況について以下のように記しています。
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶
及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、
「會夜大風雨」の「會」とは、前後の事情がうまく合致した意であり、「たまたま」と読み「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す言葉ですから、本来ならモンゴル艦隊の遭難は軍議によって撤退を決めたその夜でなければならないはずでした。
『金綱集』によって、これまで曖昧にされていたモンゴル艦隊の遭難が、10月20日の夜、博多湾内の出来事であったと特定されたことになります。
残念ながら前回このブログに書いた説は、『金綱集』の出現によって成立しなくなりました。
実は、文永の役においてモンゴル軍の船100余艘が遭難したという記録は、『金綱集』だけではありません。
荒川秀俊氏による神風論争では何故か無視されていたのですが、『皇年代略記』にも「文永十一年十五蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百余艘漂倒。」という記事があるのです。
10月21日のモンゴル船100余艘漂着の報告が10月30日に京都へ届いたというのであれば、文永の役当時に大宰府から京都まで飛脚の必要とする日数が9~10日とされている点とも一致します。
これまでの定説では、モンゴル軍博多撤退の報が京都へ届いたのは『勘仲記』『帝王編年記』の記述から11月6日とされていたのですが、実際にはそれよりも早い10月30日だったのです。
では、11月6日に京都へもたらされた報告は、一体如何なるものだったのでしょうか。
『勘仲記』と『帝王編年記』には、以下のように記されています。
『勘仲記』十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、『帝王編年記』十月十七日。自九国早馬到来于六波羅。是去三日蒙古賊人於対馬嶋合戦云々。十八日。依蒙古事於院有議定。廿八日。筑紫飛脚到来。壱岐嶋被打取云々。十一月三日。於院御所陰陽頭在清朝臣已下蒙古間事有御占。六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。
これまでの文永の役に対する考察の中で見落とされていたのは、モンゴル艦隊の博多湾撤退だけで戦闘が終わるわけではないという点です。
博多湾を出たモンゴル艦隊が他の沿岸地域を襲撃する可能性や、壱岐・対馬を占領し続ける可能性が残されているからです。
実際、刀伊の入寇や弘安の役においては、敵軍の博多湾撤退後も戦闘が継続しています。
しかしながら、『勘仲記』によれば11月6日時点で、京都においてモンゴル軍は本国へ去ったと認識されているのです。
これは日本側が博多湾撤退後のモンゴル軍の動向を把握していたことを意味します。
『帝王編年記』にしても、対馬や壱岐が打ち取られたと報告している以上、そのままの状態では皆追い返したと言えないでしょう。
『朝師御書見聞』には10月24日の日付で、対馬・壱岐など九州近海の各地からモンゴル軍の漂着船について、報告を受けていた記録も残されています。
『朝師御書見聞』 安国論私抄 第一 蒙古詞事
又或記云十月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アク郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是目見ユル分齊也、
11月6日以降、モンゴル軍の動向が大宰府から京都へ報告されたとする史料はありません。
11月6日の飛脚は、日本領内からモンゴル軍を完全に駆逐したことを告げる大宰府からの最終報告なのです。