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史料から読み解く文永の役 3

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朝鮮・高麗時代の政治家・儒学者・詩人である李斉賢(1287年~1367年)の著書『益斎乱藁』に、文永の役における高麗軍についての記事があります。
 
『益斎乱藁』 九上、忠憲王世家
元帥忽篤浮海討日本破其一岐対馬伊蠻等島以糧尽還

 
実は、『元史』にも『益斎乱藁』と類似する記事があります。
東征右副都元帥として文永の役に参加した洪茶丘の伝です。
 
『元史』 卷一五四 列傳第四十一
與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島。

 
「伊蠻」「宜蠻」とは今津のことです。
つまり、高麗軍と洪茶丘は対馬と壱岐を攻略した後、九州においては今津で共に戦っていたのです。
元・高麗側の史料で文永の役について最も詳細に記述しているのは、『高麗史』列伝にある金方慶伝です。
 
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝
舟を三郎浦に捨て、道を分ちて進み、殺す所は過当なり。倭兵、突き至りて中軍を衝き、長剣左右に交わる。方慶、植つが如く少しも却かず、一嗃矢を抜き、声大喝するに、倭辟易して走る。之亮・(金)忻・忭・李唐公・金天禄・辛奕等力戦し、倭兵大いに敗れ、伏屍すること麻の如し。忽敦曰く「蒙人、戦いに習うと雖も、何を以てか此れに加えん。諸軍、与に戦え」と。暮に及びて、乃ち解く。方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く、「兵法に「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」 とあり、我が師少なしと雖も、已に敵境に入れり。人は自ら戦いを為して、即ち孟明の焚船、淮陰の背水なり。請う、復た戦わん」と。忽敦、曰く、「兵法に、「小敵の堅は、大敵の擒なり」と。疲乏の兵を策して、日ごと滋すの衆に敵するは、完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。(劉)復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引きて還る。会々、夜、大いに風雨す。戦艦、岩に触れて多く敗れ、(金)侁は水に墮ちて死す。
(武田幸男・編訳 『高麗史日本伝』 岩波書店)

 
「三郎浦」とは早良のことです。
『益斎乱藁』の記述を踏まえると、高麗軍は早良から上陸して今津を破ったのであり、金方慶伝はその記録ということになります。
恐らく高麗軍は征東右副都元帥・洪茶丘の指揮下「舟師」に編成されて今津方面へ侵攻し、残りの主力部隊が征東左副都元帥・劉復亨に率いられて百路原赤坂方面へ侵攻したのでしょう。
今津は、1271919日に元使・趙良弼等100余人が軍船様の船で到着した港でした。
遠征軍の上陸は揚陸用の小舟で行いますが、補給物資などの荷揚には大型船の停泊できる港の確保が必要です。
港である今津征圧の任務を「舟師」である洪茶丘と高麗軍が担当するのは、作戦として自然です。
 
高麗軍の侵攻方向は通説と完全に逆ですから、九州における戦闘の認識も大幅に見直さなければなりません。
文永の役の際、高麗軍は今津において日没まで日本軍と激しい戦闘を繰り広げました。
加えて、最終的には遠征軍の総司令官・忽敦以下の諸軍も今津に集結しています。
忽敦、洪茶丘、金方慶による軍議も今津で行われました。
このことは、遠征軍が日没までに早良、百路原、赤坂といった拠点を喪失し、今津へ追い詰められていたことを意味します。
百路原で少弐景資と交戦したとされる劉復亨は矢傷を負い、先に乗船しなければならない有様でした。
遠征軍の命運はまさに風前の灯火で、まさに「軍を回すに若かず(撤退以外の選択肢がない)」という状態だったのです。

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