長い間ブログ更新を怠り、大変申し訳ありませんでした。
その間に私自身の知識も深まったことにより、ブログ開始当初とは認識に変化した部分もあります。
現時点で諸史料から考えられる文永の役の経過を、まとめておきたいと思います。
現在の元寇研究であまり活用されていない史料に『朝師御書見聞 安国論私抄』があります。
これは室町時代の僧である日朝によって執筆された『立正安国論』の注釈書で、第一巻には文永の役関連の文献の引用と日朝による解説が収められています。
言わば、元寇の約200年後に編纂された文永の役の史料集であり、その中にはよく知られた『八幡愚童訓』などと共に、他では見ることのできない貴重な記事が多数含まれているのです。
『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 文永十一年蒙古責日本之地事
或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古ノ物三人生残リ了、又四日ニ當ニ船一艘焼亡出來テ焼ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ数ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、
10月20日に百道原へ上陸した元軍が、文永の役直前に元本国から高麗へ派遣された部隊であったということは、『蒙古襲来絵詞』に描かれている元兵が精鋭の蒙漢軍であったということを意味します。
これまでの定説は、然したる根拠も無いまま百道原へ上陸した部隊を、金方慶に率いられた高麗軍と説明していたのです。
又、『朝師御書見聞 安国論私抄』には以下のような記事もあります。
『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事
又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、
文永の役において、暴風雨に遭遇した元船が九州一帯の海岸に多数漂着したというのは、『勘仲記』十一月六日条(1)や『國分寺文書』(2)の記述と一致します。
元艦隊の暴風雨遭遇の場所については諸説あったのですが、漂着船の数が壱岐のみ突出して多く、壱岐沖こそが元艦隊の暴風雨遭遇の場所だと考えられます。
そして、元艦隊が壱岐沖で暴風雨に遇ったということは、敵側史料である『高麗史』世家・忠烈王(3)の記述と一致するのです。
「一岐島に至り、千余級を激殺し、道を分ちて以て進む。倭は却走し、伏屍は麻の如く、暮に及びて乃ち解く。 会々、夜、大いに風ふき雨ふる。戦艦、厳崖に触れて多くは敗る。金侁、溺死す。」
『高麗史』では列伝十七 金方慶伝(4)に最も詳細な文永の役の記述があり、そこには博多湾から上陸した後の戦闘も記されているとされてきました。
金方慶伝の記述を、「蒙漢軍を共に博多湾から上陸した高麗軍は、夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」と解釈してきたのです。
しかし、『高麗史』は年表(5)でも「壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」としており、金方慶伝に博多上陸後の記述があるとした場合、世家や年表の内容と矛盾することになってしまいます。
金方慶伝も「軍議で撤退を決定し、その夜に暴風雨に遇った」としている以上、元軍の暴風雨遭遇が壱岐沖ならば、「夕暮れまで日本軍と戦った後に軍議で撤退を決定した」場所も、壱岐だと考えるしか無いのです。
恐らく元軍は兵の疲労を考慮し、壱岐攻略は高麗軍を中心とする半島の兵だけで行い、九州侵攻に温存した精鋭の蒙漢軍を投入したのではないかと考えられます。
10月20日に蒙漢軍が百道原へ上陸した後の戦闘経過については、佐藤鉄太郎氏による素晴らしい研究(6)があります。
『蒙古襲来絵詞』を筆頭に『大友頼奏覆勘状写』(7)『福田兼重申状写』(8)『日田記』(9)など当時の武士による記録が残っていますが、いずれも戦場を赤坂以西の鳥飼潟や百道原としたもので、あきらかに日本軍が優勢に戦っているのです。
これまでの元寇研究は『八幡愚童訓』という縁起物語を根本史料としていたため、文永の役で鎌倉武士は元軍に圧倒され、博多も占領されて焼失したとしてきました。(10)
そして、日本軍の優勢を示す諸史料との辻褄を合わせるために、百道原へ上陸した部隊を高麗軍とし、全く史料的裏付けの無い「博多正面から上陸した元軍本隊」なるものを創造した挙句、この架空の部隊によって博多が焼き払われたことにするという本末転倒な説明がなされてきたのです。
しかしながら、中世の史書、同時代人の日記や手紙、承天寺・聖福寺・櫛田神社といった神社仏閣の記録など関連史料をいくら調べても、文永の役において博多が焼き払われたなどという記述は存在しません。
『八幡愚童訓』の記述は、全くの出鱈目でした。
元寇研究においても他の歴史事項と同様の史料批判が行われていれば、『八幡愚童訓』のような縁起物語が根本史料として採用されるはずは無かったのです。
実際には、文永の役における九州の戦闘は、日本軍の苦戦ではありませんでした。
叡尊の『金剛仏子叡尊感身学正記』(11)は「(蒙古人は)即退散した」とし、『帝王編年記』(12)も「合戦で賊船一艘を取り留め、その外は皆追い返した」という報告を受けたとしています。
上陸した元軍は、迎え撃った日本軍によって速やかに撃退されたのです。
九州から壱岐へと逃げ帰った元軍総司令官の忽敦は、高麗軍を率いる金方慶と協議の末、日本からの撤退を決断しました。
忽敦が撤退を急いだ背景には、『高麗史』に記されているように、壱岐においても夕暮れまで日本軍の激しい追撃を受けていたという事情がありました。
『歴代皇紀』(13)は10月20日に大宰府の兵船300余艘が出航して元艦隊を追ったとし、『菊池系圖』(14)やその別本(15)は赤星有隆が壱岐対馬での元軍追撃戦において武功をあげたとしています。
他にも『松浦党大系圖』(16)が、蒙古合戦に参戦した山代諧の討死した場所を対馬としています。
10月5日の元軍襲来時に肥前の御家人である山代諧が対馬に居たはずがありませんから、山代諧は元軍に対する追撃戦で戦死したと考えるしかありません。
佐志房が3人の息子とともに戦死し(17)、日蓮が「松浦党は数百人打れ」と言及するなど(18)、従来から文永の役において松浦党に多くの犠牲者が」でたことは知られていましたが、その経緯については不明な点が多くありました。
松浦党は元軍の対する壱岐対馬の追撃戦で、多くの犠牲者を出したのです。
日本軍の追撃から逃れるため危険を賭して夜間に壱岐を発った元の艦隊は、沖合で悪天候に見舞われて多くの損害を受けました。
『元史』日本伝(19)は、四境(国境)である対馬壱岐を「唯虜略して帰った」とし、惨敗に終わった九州での戦闘に言及することを避けています。
『鎌倉年代記裏書』(20)は、元の難破船が浦々に打ち上げられた10月24日を「異賊敗北」の日としています。
(1)『勘仲記』「十一月六日、戊寅、或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫頼泰、郎從等凶賊五十餘人令虜掠之、皆搦置彼輩等召具之可令参洛云々逆風事神明之御加被歟無止事、可貴其憑不少者也、」
(2)『國分寺文書 薩藩奮記』「就中蒙古凶賊等來著于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、」
(3)『高麗史』 巻二十八 世家二十八 中烈王一「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗、金侁溺死、」
(4)『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、�莞聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、」
(5)『高麗史』巻八十七、表二 年表二「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
(6)佐藤鉄太郎「『蒙古襲来絵詞』に見る日本武士団の戦法 (特集 元寇)」、『軍事史学』第38巻第4号、錦正社、2003年3月
(7)『大友頼泰覆勘状写 都甲文書』「蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如如、文永十一年十二月七日 頼泰 都甲左衛門五郎殿」
(8)『福田兼重申状 福田文書』「右、去年十月廿日異賊等龍(襲カ)衣渡于寄(ママ)来畢(早カ)良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山(凶カ)徒等令懸落百路(道)原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ(ママ)被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、」
(9)『日田記』「文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡二軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処二於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ」
(10)『八幡愚童訓』「博多ヲ逃シ落人ハ、一夜ヲ過テ帰リシニ、本宅更替果」
(11)『金剛仏子叡尊感身学正記』「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」
(12)『帝王編年記』「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」
(13)『歴代皇紀』「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」
(14)『菊池系圖』「有隆赤星三郎 文永十一年十月廿日於壱岐對馬筑前所々有軍功蒙古大将討取、」
(15)『菊池系圖』別本「有隆赤星三郎 人皇八十九代亀山院御宇文永十一年甲戌十月廿日於筑前國鎌形討伐蒙古襲来之敵、追到對馬國、戮蒙古之將、」
(16)『松浦党大系圖』「山代 廣生諧字彌三郎。文永十一年。蒙古合戦討死。干對馬。」
(17)『弘安二年十月八日関東下知状 有浦文書』
(18)『日蓮書状』「松浦党は数百人打れ、或は生取にせられしかは、寄たりける浦々の百姓とも、壱岐・対馬の如し、」
(19)『元史』卷二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「冬十月、入其國、敗之。而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸。」
(20)『鎌倉年代記裏書』「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」