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Channel: 元寇の真実
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過去の日本人の元寇に対する認識

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戦後、私たちは元寇について「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」のだと教えられてきました。
そして、この奇跡的な元寇の幸運を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」日本人は、自国に対する神国観念を彫磨させ、そのことが明治以降の軍国主義をもたらし、日本を太平洋戦争へと導いたのだと教えられてきたのです。

江戸時代の歴史家・頼山陽が書いた『日本外史』という歴史書があります。
これは、源平二氏から徳川氏まで武家の興亡を漢文体で記したもので、『平家物語』や『太平記』と並べて、広く日本人に愛読された歴史書です。
漢文を訓み下し文にしたものが、岩波書店から出版されています。
『日本外史』は元寇の戦闘について以下のように記しています。

『(文永)十一年十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。転じて壱岐に至る。守護代平景隆、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て虜の将劉復亨を殪す。虜兵乱れ奔る。』

『(弘安)四年七月、水城に抵る。舳艫相ひ銜む。実政の将草野七郎、潜に兵艦二艘を以て、志賀島に邀へ撃つ。虜の二十余級を斬首す。虜、大艦を列ね、鉄鎖にてこれを聯ね、弩をその上にはる。我が兵近づくを得ず。河野道有奮つて前む。矢、その左の肘に中る。道有益々前み、帆柱を倒し虜艦に架して、これに登り、虜の将の王冠せる者を擒にす。安達次郎・大友蔵人、踵ぎ進む。虜、終に岸に上る能はず。収めて鷹島に拠る。時宗、宇都宮貞綱を遣して、兵に将として実政を援けしむ。未だ到らず。閏月、大風雷あり、虜艦敗壊す。少弐景資ら、因つて奮撃し、虜兵を鏖にす。』
(『日本外史』 頼山陽・著 頼成一・頼惟勤・訳 岩波書店)

「虜」というのは敵を罵っていういい方で、この場合は元のこと。
『日本外史』の記述では、文永の役は完全に武力のみで元軍を撃退したことになっています。
弘安の役の「大風雷」も、単に日本に有利に作用した気象現象に過ぎず、「神風」などという言葉はどこにも出てきません。
幕末から明治にかけて最も多くの日本人に読まれた歴史書の認識では、元寇の勝利は鎌倉武士の奮戦によるものなのです。
日本人が元寇の勝利を「700年間に渡って神風によるものだと信じてきた」などという話は大嘘でした。

それから時代が下って近代になると、白鳥倉吉博士によって書かれた『国史』という歴史書があります。
これは昭和天皇のための歴史教科書として書かれたもので、そのままの文体のものも出版されていますが、現代語訳が講談社から出版されています。

『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』

『このため、元はまた大挙して攻めてきて、その軍は壱岐、対馬をへて博多と肥前の沿岸にも迫りましたが、南海、西国の将兵がよく防ぎました。また、偶然にも大暴風雨がおそい、敵の船は破壊され、多くの兵が溺死し、残った軍はあわてふためいて逃げかえりました。弘安四年のことでありましたので、これを弘安の役といいます。』
(『昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳)』 白鳥倉吉・著 出雲井晶・訳 講談社)

文永の役についても、弘安の役についても、基本的に『日本外史』と同じ認識です。
『国史』の見解では、元寇の勝因は『元軍にとって、海路から迫ることが困難であったといえども、これはわが将兵が奮戦したことと執権時宗の勇気ある決断が措置をあやまらなかったことによるものであったというべきでしょう』とのことです。
勿論この『国史』は昭和天皇のための歴史教科書ですから、一般向けの歴史教科書とは異なります。
大正時代になると、一般向けの歴史教科書では、弘安の役の暴風雨を「神風」とする明治時代にはなかった記述が、初めて登場します。

『元はすつかり支那を従へ、その勢いで、弘安四年に、四万の兵朝鮮半島からふたたび筑前にさし向け、別に支那からは十万の大兵を出した。朝鮮半島から来た敵兵は、壱岐ををかして博多に攻寄せて来たが、菊池武房や河野道有・竹崎季長らの勇士は、石塁にたてこもつて防いだり、勇敢にも敵艦へ斬りこんだりして、大いにこれを苦しめた。そのうち、支那から来た大軍が、これといつしよになつて、今にも攻寄せて来ようとした。その時、にはかに神風が吹きおこつて、敵艦の大部分は沈没し、溺れて死ぬものは数へきれないくらゐであつた。』
(『尋常小学国史』)

「神風」は登場しましたが、それ以前の武士たちの奮戦も強調しています。
それは、弘安4年6月6日に博多湾に迫った元の艦隊が、閏7月1日に「神風」に遭遇するためには、約2ヶ月間に渡って上陸を阻んだ武士たちの奮戦が、必要不可欠の要素だからです。
また、この時期の教科書でも、元軍が大風に遭遇したとされたのは弘安の役のみです。
元寇が、「敗戦濃厚だった鎌倉武士が文永の役と弘安の役の2回とも偶然の大風によって救われた」という私たちのよく知っているスタイルに変化したのは、戦後、GHQの占領下で作られた第七期国定教科書『くにのあゆみ』からでした。

『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることができました。』

『こののち、弘安四年(西暦一二八一年)七月には、四千四百せきの船に、十四万の大兵を乗せて、ふたたび博多湾に攻めよせてきました。この時もまた大あらしがおこつて、敵の船を吹きちらしてしまひました。』
(『くにのあゆみ』)

第二次大戦後、日本を占領したGHQは、「日本を武装解除し長期的に弱小国の地位にとどめる」という戦略のもと、歴史教育にも介入しました。
GHQの認識では「武士」=「軍人」でしたから、武士の登場する記述には、その内容に関係なく問答無用で墨が塗られていきました。
このような状況下で、元軍の日本侵略を阻止した鎌倉武士たちの奮戦も消され、文永の役と弘安の役の勝利は、2回とも偶然の大風という幸運の結果にされてしまったのです。

戦後、私たちが元寇について聞かされていた話は、全て政治的に捻じ曲げられものでした。

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